グッチを作った男 / シャネルを作った女

fashion brands 実業家

グッチやシャネルといった現代でも有名なファッションブランドは誰がいつどんな思いで打ち立てたのでしょうか。今回はファッションブランドを築いた先達の人生を振り返ります。

グッチを作った男

1881年、グッチオ・グッチ(Guccio Gucci)はイタリア・フィレンツェで生まれた。家は麦藁帽子を製造する零細工場。17歳のグッチオは一旗あげようとイギリス・ロンドンに出向き、最高級ホテル「サヴォイ・ホテル」にて皿洗いの職を得る。グッチはホテルを訪れる王侯貴族の振る舞いを見て、原価は意味をもたず、商品の値段が高いほどそれを所有する価値も高くなる、ということを学んだ。

第一次世界大戦後の1919年、故郷フィレンツェに戻る。今度は高級レザーグッズ店「フランツィ」にて皮革の扱い方を習得。1921年(40歳)に皮革製品を行う会社を設立する。翌年、フィレンツェに自信の店を開き、その翌年、42歳に「GUCCI」の店名を掲げる。創業時は鞄の修理を主に担っていた。この鞄の修理を通じて使いやすく丈夫な鞄をつくる技術を学んだ。

自身の創造性を活かして制作された、乗馬の世界にモチーフを求めた鞄、トランク、手袋、靴、ベルトなどのコレクションが顧客の注目を集め、1940年代の第二次世界大戦に起因する閉鎖経済時にも顧客を拡大。1953年に72歳で生涯を閉じるまで、グッチブランドを育て上げた。

シャネルを作った女

1883年、ココ・シャネル(Coco Chanel)はフランスの求貧院で生まれた。一部屋だけの住居にすし詰め状態で幼少期を過ごし、12歳の時に母ジャンヌが死去した後、聖母マリア聖心会が運営する孤児院に預けられる。シャネルは惨めな思いを抱えながら、孤児院にて厳格な規律のもとで6年間裁縫を学び、18歳にて孤児院を出てカトリック女子寄宿舎に預けられた後、仕立て屋で仕事をしながら舞台に憧れてキャバレーで歌を歌っていた。

シャネルはより本格的な舞台を目指し、田舎町を出て温泉リゾート”ヴィシー”に向かう。しかし競争の激しいヴィシーで、実績もなく歌声に対する評価も低かったシャネルは成功の糸口をつかむことはできなかった。

シャネルは故郷に戻り、故郷で両親から莫大な遺産を相続したバルサンと23歳の時に愛人となる。シャネルはバルサンと自堕落なパーティに明け暮れ、26歳でバルサンの友人ボーイ・カぺルと関係を持ち3人でふしだらな生活を送った。そして1910年、27歳にて、カぺルに出店費用を援助してもらい、バルサンの提案で婦人用帽子を販売する”シャネル・モード”を開店する。1913年になると、カぺルに資金援助してもらってドーヴェルにブティックを開業する。

プラダを作った男

プラダの創業者マリオ・プラダ(Mario Prada)は1887年、イタリアのミラノに生まれる。1913年、26歳のときに兄マルティーノと共に旅行用革製品店「Frateli Prada」を開業する。第一次世界大戦後の1919年、マリオはパリに旅行し、高級なレザーグッズを製造していたショップを訪れる。この経験が彼の創業後の方向性に影響を与えることになる。1920年代に入り、プラダは旅行用品から革製バッグや財布などのファッションアイテムを製造・販売するようになる。1950年代には、プラダはイタリア国内だけでなく、国際的な名声を得るようになる。1958年、71歳でマリオ・プラダは死没。

マリオ・プラダの死亡後、娘ルイーズが引き継いだものの、時代の変化に対応できずブランドは凋落し、長く低迷期が続いた。1978年、マリオの孫娘ミウッチャ・プラダがオーナー兼デザイナーに就任すると、デザインの斬新さや革新的な素材使いが評価され、日本やアメリカで人気になる。アパレル分野に進出したのは比較的最近で、1985年に靴、1989年に婦人服、1994年に紳士服のコレクションをスタートした。1993年には「ミュウミュウ」(MIU MIU)を設立。ブランド名のMIU MIUは、ミウッチャ・プラダの幼少時代からのニックネームが語源。

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