世界で初めて空を飛んだ “モンゴルフィエ兄弟”

飛行の歴史 実業家

飛行機開発ではアメリカのライト兄弟が有名だが、熱気球も含めると、世界で初めて空を飛んだ男は”モンゴルフィエ兄弟”というフランス人の兄弟である。ただし、現在の飛行機開発への系譜という意味では、友人グライダーを通じて数々の飛行理論を解き明かした”ジョージ・ケイリー”が、この系譜における第一人者と言えよう。

熱気球で初めて空を飛んだモンゴルフィエ兄弟

兄ジョゼフ=モンゴルフィエは1740年、弟ジャック=モンゴルフィエは1745年にフランスで製紙業者の息子として生まれた。ジョゼフは1777年頃までに、洗濯物を乾燥させるために火を焚いたとき、発生する上昇気流の存在に気付き熱気球を思いついた。1782年には熱気球の実験で無人状態にて空に簡素的な気球を浮かばせることに成功。1783年には動物を気球に乗せて動物実験を行い、同年11月には史上初の有人飛行が行われている。パリ上空を25分間にわたって飛行し、無事着地した。

モンゴルフィエ兄弟が熱気球による有人飛行を成功させた1783年、ジャック・シャルルとロベール兄弟は水素気球(ガス気球)による飛行を成功させている。これは1766年にイギリスの科学者ヘンリー・キャヴェンディッシュが人為的に水素を発生させることを発見したことが基となっており、その後熱気球とガス気球は競うように発展していったが、ガス気球の方が熱気球より効率的だったため、熱気球は次第に使われなくなっていった。尚、モンゴルフィエ兄弟が熱気球による有人飛行を行ったのが1783年11月21日、シャルルとロベール兄弟がガス気球による有人飛行を行ったのはその僅か10日後の1783年12月1日のことである。

ジョージ・ケイリーの功績

ジョージ・ケイリーは1773年、イングランド北部のブランプトンという小さな街で準男爵の家系に生まれた。当時の貴族階級は公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、侯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の順となっていたので、貴族階級の中では地位が低い。ケイリーは19歳で家を継ぎ、当時の楽天主義の流れに乗って多種多様な工学的研究開発を行った。工学分野は飛行機だけでなく、義肢、内燃機関、熱気エンジン、光学、内燃機関など幅広い。ケイリーは学生時代から飛行理論に関する考えを温めており、家を継いだ時点で既に固定翼面による揚力の発生という概念を持っていたと指摘されている。ケイリーは自身の邸宅で様々な形状の回転翼を試験し、航空機に働く4つの力(推力・揚力・抗力・重力)を認識するに至った。1804年までには数々の飛行理論の研究を基に、現代の飛行機と同様のグライダー模型を作っている。1857年、84歳にて死没。

sir GEORGE CAYLEY (1773 – 1857), aviation pioneer.

ケイリーの研究を継いだオットー・リリエンタール

ジョージ・ケイリーの死後、ジョージの飛行理論に関する研究開発記録を基に、数々の実験を行って飛行理論を進めたのがドイツ人技師、オットー・リリエンタールである。オットーは1848年、プロイセン王国(現ドイツ)の中流家庭に生まれた。中学時代、鳥の飛び方を研究して有人飛行開発の世界に魅了される。1867年、空気力学の実験を開始。様々な技術系の会社を転々としながら実験を進め、1878年にはプロイセン王国に戻り、1883年、35歳のときにボイラーと蒸気機関を作る会社を設立した。リリエンタールの蒸気機関は当時の小型蒸気機関の中でも安全性が高く、この資金で飛行実験の研究開発を行っている。リリエンタールはジョージの作った図を基に数々の有人グライダーを開発した。彼は重力を均等に分散させ安定飛行することに注力し、オーニソプターや複葉機など様々な機種を開発。空気より重い機体での飛行を成功させた。数々の実験により航空学の分野を進展させたものの、1896年、48歳にて実験中に事故死することになる。

リリエンタールの研究と蒸気機関を組み合わせたライト兄弟

ライト兄弟は1903年、世界初の有人動力飛行に成功した人物であるが、この成功の背景には2つの技術的要素がある。1つはリリエンタールによる数々の実験により得られた飛行理論、もう1つは蒸気機関の発明である。蒸気機関では、1690年、フランス生まれのドニ・パパンが蒸気機関を発明したことを皮切りに、1698年:イギリス人発明家トマス・セイヴァリによる”火の機関”の開発、1712年:イギリス人発明家トマス・ニューコメンによる世界初の実用的蒸気機関の開発、1769年:イギリス人エンジニアであるジェームズ・ワットによって高効率蒸気機関が開発された。1800年にはワットの蒸気機関の特許が失効した後、蒸気機関の高効率化が更に進められるとともに、蒸気船をはじめとする交通機関への転用が盛んに進められていた。

ライト兄弟はリリエンタールが死去した1896年以降、リリエンタールの飛行理論と蒸気機関を組み合わせ、世界初の動力付き飛行機を開発することに思い至る。兄ウィルバー・ライトは1867年生まれ、弟オーヴィル・ライトは1871年生まれのアメリカ人である。ライト兄弟は裕福な生まれではなく、自転車屋の経営で生活基盤を築き研究に必要な資金を自弁しながら、有人飛行機の研究開発を行った。ライト兄弟はリリエンタールらと比べても遥かに多くの実験を行い数多の失敗を重ねながら、サミュエル・ラングレー教授の研究資料の提供を受けながら一歩一歩着実に研究を進めていき、1903年に世界初となる動力飛行機の開発に成功した。当時兄ウィルバー・ライトは36歳、弟オーヴィル・ライトは32歳だった。

しかしその後、ライト兄弟の功績とは裏腹に、研究成果に目がくらんだ同業者やかつての師匠との特許に関する係争裁判に巻き込まれることになる。その結果、ライト兄弟は多額のロイヤルティ(特許料)が裁判で認められたものの、ライト兄弟が今度は数々の特許を武器に航空会社に圧力をかけるようになり、その結果アメリカの航空産業はドイツ等と比べて大きく遅れることとなった。

ライト兄弟と同時期に有人動力飛行に成功した可能性のある男

ライト兄弟は1901年に有人動力飛行に成功したが、ドイツ生まれのアメリカ人グスターヴ・ホワイトヘッドはそれより早い1899年に世界初の有人動力飛行に成功した可能性がある。”可能性がある”としたのは、記録が不十分であり立証することが困難であるとされているためである。しかし、多くの目撃者が1899年頃にホワイトヘッドが飛行している姿を目撃している。

グスターヴ・ホワイトヘッドは1874年にドイツで生まれ、少年時代から飛行理論に興味を持ち、のちに航空整備士の免許を得て、航空技師となっている。1893年には前述のオットー・リリエンタールと面会している。1894年には更なる研究に打ち込むためにアメリカへ渡っている。1897年以降、数々の滑空機を制作し、1899年には約1kmの飛行が目撃されている。ホワイトヘッドは商業に疎く特許のことを十分には知らなかった。きちんとした記録も残しておらず、写真も残していない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました