2000年4月28日、世界的に有名なダイバー”ユーリ・リプスキィ”はエジプトのブルーホールというダイブスポットで海の底で帰らぬ人となった。彼の死は多くのダイバーに知られているが、これほど多くの人に彼の死が知られている大きな要因は、彼のラストダイブがyoutubeにアップロードされているからだろう。もう14年も前に投稿された動画だが、現在でも視聴できる状態にある。
「何かに引き込まれた」「不自然な呼吸である」などのオカルト的な見方も多々見られる。こうした見方も大変面白いと思うが、今回はダイバー視点で彼の死について考えてみようと思う。
ユーリ氏の動画を詳しく解説する
動画を見ながら読んでもらえると分かり易いかもしれない。あるいは動画を見終わった後、何が起きているかを推測するときの参考に見てもらえれば状況理解の補助になるだろう。
0:01-2:58 ①ユーリ氏は念入りに水中カメラの映りを確認している様子が伺える。まず潜降前に念のためレンズの状態を確認し、浅瀬からブルーホール特有の深海部分に移動している動画の取り方をしていることから、この後ユーリ氏は自らの意志によってブルーホールに潜ろうという意志が伺える。②水の泡はほぼ垂直方向に流れていることから、ダウンカレントどころか海流の影響はほとんどない。そもそもブルーホールとは、地形が海流の影響を拒む作りをしているため、カレントは発生しずらい。③水中カメラの状態確認や撮り方から、この時点でのユーリ氏は正常な思考ができていた可能性が高い。④水面に差し込む太陽光の映り具合から、この時点では深度1-3m程度の地点にいると推測できる。
2:53 「かん、かん」という音が聞こえる。これはユーリ氏の持っていた水中シグナル器材で音を鳴らしている。手前にダイバーの姿が見えるので、このダイバーの注意を惹こうとしたもので間違いない。手前のダイバーは水中シグナルの音に気付き辺りを見渡しているが、ユーリ氏はちょうど背面上方にいたため気づかれていないように見える。
3:20 「HELP!」というユーリ氏の声と、水中シグナル器材を再度鳴らしたことが確認できる。深度は3-5m前後で水面から差し込む太陽光が見える。このときの「HELP!」は「助けて」の意味ではなく「ついてきて」の意味だと思われる。ダイビングは世界中どこに行っても共通してバディ・システムを取る。ベテランだろうが素人だろうが関係ない。ユーリ氏はこの時、バディと認識している相手に対して「共に潜降しよう」という意味で声をかけた。
仮にこれが「助けて」の意味であった場合、ユーリ氏がつけている荷物の重みと何らかの体調不良によって自己制御できなくなり助けを求めたと解釈できなくもないが、それなら最初の水中カメラの映像からブルーホールの浅瀬付近にいたことは明らかなので、浅瀬付近まで数m戻って地形に着地するだろう。そもそも真下に岩盤が見えるので、わざわざブルーホールまで泳がずに落下すれば深度7,8m前後で留まって何の問題も無かった。ダウンカレントも、引き込まれるような海流も発生していないことは泡の動きから明らかである。レギュレーターを外しておらず、水中シグナル器材の音の鳴らし方にもパニックが見られないことから最低限の意識は保てているのは間違いない。この時点では浅瀬から水平移動しただけで水圧の変化もないので、重みに耐えきれなくて落下するならば、最初の水中カメラ確認時付近で浅瀬に落ちてる。意識が保てている以上、危険なら身に着けている器材を外して海底に落とすし、それでも制御できなければBCDに空気を入れて緊急浮上する。それくらいはベテランダイバーなら出来ないとおかしい。酸素中毒になるのは基本的に深度30mを超えてからなので、深度2-3mのこの段階で酸素中毒によって正常な思考が出来なかった可能性も薄い。最期海底でもがいていることから、このタイミングで身体を動かせなくなる病気等も発症してもいない。
4:00 ブルーホールに向かって移動する。レギュレータから聞こえる音に違和感がある。これを以てユーリ氏はこの時点でうまく呼吸できなかった可能性を指摘する声もある。一方で、ユーリ氏は特殊な呼吸法を用いていたという声もある。私の推測では、この時点(深度30m以前)まではユーリ氏は正常な思考を持ち自らの意志でもう少し深い地点までいくことを決めている。本人が正常な思考である以上、仮に呼吸にトラブルがあったとしても本人を過度に苦しめていない(呼吸トラブルかつ正常な思考なら浮上することを決める。この程度の深度ではまだ浮力も十分大きく、浮上しようとして出来ない水圧は発生していない)。本人が正常に思考しGOサインを出せる程度の違和感、もしくは本人が意識的にしている呼吸法のいずれかの状態にある。すなわち、この呼吸は間接的であれ死因には影響していない。
4:30 潜降が始まる。ごつごつした岩盤が見えなくなり、浅瀬からブルーホール部分に移動したことが伺える。泡の向きは海底から水面に向かって流れており、それに逆行するように海底に潜っている。
潜降ペースはかなり早い。この時の潜降ペースは正確には分からないが、4:20で岩盤が真下に見えなくなった地点を7m前後と見た場合、5:38に81.7mに達しているので58秒で73m潜降したことになる。ここで気になることが3つある。
①この潜降途中でダイビング・コンピュータ(以下ダイコン)を確認した素振りがない。もちろん水中カメラに映していないだけで確認した可能性もあるが、既に周辺が暗い深度にいることが映像から伺えるため、ダイコンを確認するためには水中ライトで照らす必要がある。この場合、最後海底で確認するように身じろぎする必要があるが、ユーリ氏が身じろぎをした様子は見られない。ダイコンで深度を確認しながら潜降していくのがダイビングの鉄則であり、確認していないのは不自然だ。途中で止まる素振りも見せていない。
②バディの姿を確認しようとした素振りが見えない。水中カメラの様子から、この時点で大きく身じろぎをした様子もない。深度が深くなり辺りが暗くなっているが、ユーリ氏の持っていた水中ライトを使ってバディを探した様子も見えない。バディがいないことに違和感を感じている様子がない。
③ユーリ氏のつけているダイビング装備は分からないが、動画序盤で見えるカメラの映像から、ダイバー仲間がつけている装備は通常のレクリエーションダイブの装備と同様に思われる。「HELP」で気づかせようとした仲間も同様で、シリンダーの数は通常の大きさのものが1本だけだ。バディシステムの基で共に潜ろうとしたならば、ユーリ氏も同程度の器材だったと推測できる。もしユーリ氏が最初から海底90m付近まで潜るつもりだったならば、シリンダーは5,6本装備するのが定石だ。即ち、ユーリ氏は潜降し始めた段階では深度90m付近まで潜ろうとは考えていなかった可能性が高い。
→ここから推測できる結論は以下のようになる。ユーリ氏は潜降し始めた段階では、深くとも40m付近で引き返す予定だった。しかし、恐らく深度30m前後の比較的浅めな段階で酸素中毒に陥り、意識がふわふわして正常な判断は失われた。バディの存在を意識できない状態にあり、ダイコンの深度も確認しなかった。ユーリ氏のつけていた過重量の装備と20m以下の深度で浮力のバランスが変わるフリーフォールに身を任せ、急速に深度が落ちていっていることにすら気づけなかった。深度が増すごとに潜降速度は増していき、最期海底に達した時に驚いてダイコンを確認すると深度80mを超えていた。潜降速度は本人の意図によるものではなかった。
5:04 魚のような影が見える。この魚のようなものに驚いた可能性があるとの指摘も見られるが、私はその可能性はかなり薄いと考える。ダイバーにとって魚は慣れ親しんだものであり、それがサメでも見られて感動こそ覚えるが恐れることはない。サメはサメ映画の影響で恐ろしいもののように思われているが、本来サメは臆病な生き物であり人間に近づいてこない。ダイバーにとってこの認識は世界共通で誰でも持ってる常識だ。人間に餌付けされた魚ではないかとの指摘もあるが、仮にそうした魚だとしてもユーリ氏のトラブルに繋がった可能性は低い。魚に接したような衝撃は見られないからだ。ベテランダイバーが魚を見て驚きパニックになることは絶対にない。
5:38 ダイコンの表示を確認して深度81.7mであることを確認している。尚も止まらずに潜降。
5:56 91.6mまで達している。海底に達しゴツゴツした岩盤が確認できる。ゴツゴツしているが、フィンを取られるような岩盤ではない。海藻のようなものがほんの少し見えるが絡まる程度ではない。
6:13 ユーリ氏が藻掻いて海底の砂が巻き上がっている。
6:45 ユーリ氏は藻掻いているが、レギュレーターの呼吸音が聞こえなくなる。この時点でパニックになっており、レギュレーターを外したことが分かる。フィンが取れて水中に浮遊している。ケーブルのようなものが取れて水中に浮遊している。
結論とダイバーがこの事件から学ぶべきこと
改めて、ユーリ氏の状況は以下の可能性が高い。ユーリ氏は潜降し始めた段階では、深くとも40m付近で引き返す予定だった。しかし、恐らく深度30m前後の比較的浅めな段階で酸素中毒に陥り、意識がふわふわして正常な判断は失われた。バディの存在を意識できない状態にあり、ダイコンの深度も確認しなかった。ユーリ氏のつけていた過重量の装備と20m以下の深度で浮力のバランスが変わるフリーフォールに身を任せ、急速に深度が落ちていっていることにすら気づけなかった。深度が増すごとに潜降速度は増していき、最後は海底に到達。これに驚き、ここで初めてダイコンを確認すると深度80mを超えていた。海底に着いた段階で想定外の深度にパニックに陥る。尚も止まらず深度91.6mまで落下し、パニックのあまりレギュレーターを外して溺死。
教訓
深度30mを超え酸素中毒に陥った段階でユーリ氏に出来ることはもうなかったと言える。意識がやや戻った深度90m付近で冷静に対処し、必要最低限以外の装備を海底に捨てて緊急浮上したとしても、この深度で通常のシリンダー1本だと窒素が身体から抜ききる余裕はほとんどない。シリンダーの持つギリギリまで安全停止したとしても、水面に達する頃には深刻な窒素中毒が原因で死亡か障害は残っていただろう。ただしこの事故は深度30m以前に以下のうち1つでも守っていれば未然に防げた可能性が高い。
①いかなる状況でもバディ・システムは守らなければいけない。周辺を見渡してバディが見えなければ、どんな場面であっても、バディの探索を中止して安全な速度で浮上すること。ユーリ氏の意識が正常であったであろう深度15m付近であれば、バディ・システムの維持だけで助かった可能性が高い。
②ダイコンの深度は頻繁に確認すること。何か他のことを意識しているうちに(例えば海中生物を追いかけているうちに)、想定以上の深度まで達していることは思いのほか多い。ダイコンの深度は数秒に1回は確認する習慣をつける。己の感覚を一切信じてはいけない。
③レクリエーション器材で深度30m以下まで潜らないこと。AOWまで取れば深度40mまで潜れるが、深度30mまでが推奨されるのは酸素中毒のリスクが上がるから。これは恐らくユーリ氏がベテランであるが故の慢心だが、深度30-40mまで潜ることは最初から決めていたように見える。ベテランダイバーであっても、推奨される深度を超えるならばそれ相応の心構えと器材が必要である。
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